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平田甲太郎家文書<用水林無断伐採につき念書提出> 宝永5(1708)年
 文書№637
<文書の解説>
この文書に使われている用語のいくつかについて、以下に考察・解説する。
1 用水林
 平田家文書では時々出てくる言葉で、水田の用水には欠かせない森林のこと。山地の水源涵養林を指していることが多いが、今回の文書では、用水路沿いの水路保持のための雑木林も含んでいるようだ。
2 猥り
 「みだり」は、現代でも「みだりに立ち入るべからず」などと使われる言葉で、勝手・不当の意味。この文書では、「みだり」という単語を名詞扱いにして、この語一つで「林の無断・無法伐採」という意味になる。
3 迷惑至極に存じ奉る
 現代語で読めば、「自分たちにとっては大変迷惑だ」という意味になるが、江戸時代の使い方は現代とは違う。迷惑は、困惑や申し訳ないの意味で、「貴方様にご迷惑・ご面倒をおかけするのは大変心苦しく申し訳ない」という意味になる。取調べが入るときなどによく使われる。
4 三日の縄下
 縄下という用語が一般的だったのかどうかは不明。縄の下(もと)に置くということで、一般的に「お縄にする」と言うのと同じ意味だと思う。ただし、実際に捕縛するということではなく、拘禁状態に置くということだろう。イメージとしては「戒めのために入牢のような監禁状態に置く」のが一番近いのではないだろうか。
5 御自分の御家来なりとも
 ふつうに読めば「貴方様の御家来であっても」となる。貴方様とはこの文書の宛先である平太夫。
 うがった見方をすれば、無断伐採人の中には平太夫の家来(使用人)もいて、だから、事を荒立てるのは止めましょうということなのかもしれない。しかし、そこまで邪推すべきかどうか確信がないので、広報紙では「自分たちの家族・使用人などが」とややぼんやりと紹介した。
6 過金をば近村の寺へ懸ける
 チャットAIのGeminiによれば、江戸時代のこの「寺へ懸ける」という言い方は、村の共有財産から寺へ「寄付・布施」する場合に使われていたという。
7 宛名の平太夫に関して
 平田甲太郎家系図によれば、この文書の当時は第8代平太郎の時代に当たる。
 同系図には、この人物の襲名前の名は書いてない。しかし、第10代平太郎は襲名前の名が平太夫と書いてあるし、襲名前の名が書いてない人物も何人かいる。このことから、襲名前に平太夫を名乗った人物は何人かいたものと思われる。この文書では、第8代平太郎も前名は平太夫だったことになる。
 ところで、前代の第7代平太郎は、系図によれば延宝8(1680)年卒となっている。この文書の28年前になる。にもかかわらず、宛名が襲名前の平太夫となってるのは、何か襲名をずっと遅らせた事情でもあったのだろうか。
 ここでまたまた、うがった見方をすれば、あえて宛名に旧名を使ったことも考えられなくはない。前述の「御自分の御家来」という言い方と考え合わせれば、どこか皮肉っぽい感じがしないでもないのだが、そこまで勘ぐる必要もないのかもしれない。
8 大庄屋について
 この文書には大庄屋という文言は出てこない。しかし、上述の系図によれば平太郎家は代々大庄屋家だった。平太郎が大庄屋だった時代の文書では、小見村庄屋は平太郎とは別人が就いている。つまり、大庄屋は庄屋を兼ねず、その上に立つ役職だった。
 江戸時代の始めから関川村一帯は村上藩領だったが、宝永6(1709)年に村上藩が大減封された際、一部を除いて大部分は幕府領になった。だから、この文書は村上藩から離れる直前の時代のものになる。
 当時は、藩も幕府も大庄屋制をとっていたが、正徳年間(1710年代)になって、幕府領の大庄屋制は廃止になったとされている。平田家系図では、その後も江戸時代を通して平田家は小見組大庄屋と記されているが、実際は、小見村庄屋役であった。
 しかし、組という制度はいろいろな場面で使われて残っており、その組を代表する惣代庄屋というのも実質的に残っていた。領主の現地代官としての大庄屋制は廃止されても、実質的に地域を代表する庄屋としての地位と役割は江戸時代を通して変わらなかったということになる。
原文1
釈文1
読下し1
原文2
釈文2
読下し2
原文3
釈文3
原文4
釈文4
意訳1
意訳2
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