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| 平田甲太郎家文書<小見村庄屋後役願 文政3(1820)年 文書№595> | |||||
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| この年、病死したのは平田家12代平太郎。田麦堀割訴訟で村上藩を四苦八苦させた傑物です。小見村では、次の庄屋に、平太郎の忰・昌平を決めて代官所に願い出ました。 この文書には、宛名も押印もなく、下書きの文書と思われます。ただ、文書の内容から、水原代官所へ宛てたものであることは分ります。 この文書の内容と背景は、村広報紙2025年2月号掲載の通りです。分かりやすい文章で特段の解説も不要ですが、若干の補足をしておきます。 (1) 本文5行目「御年貢引負等仕候而茂」の「引負」について 古語辞典等を調べると、引負(ひきおい)とは、年貢未進の意味で、庄屋が着服して上納しない場合などに使う言葉のようです。未進は完納しない意味で、未納とほぼ同義です。 (2) 本文7行目の「村中ニ而引請 急度弁御上納可仕候」の箇所について ① 「御」は「済」の書き誤りとも考えられます。そうであれば、意味は「村中で引き受けて、必ず弁済上納いたします」となります。 ② 誤記ではないとすれば、「急度(きっと)弁(わきま)え、御上納仕るべく候」となります。 古語辞典で「弁え」の意味を見てみると、弁償や分別・心得の意味があるとなっています。 弁償の意味ととれば、弁済と意味は変わらないことになるので、意味は①と同じになります。 ③ 分別や心得の意味ととれば、「村中で引き受けて、きちんと心得て、御上納いたします」という意味にもとれます。 ①②③のどれにしても、連帯保証を表明したことになり、代官所とすれば、この部分が一番重要ということになるでしょう。 (3) 本文5行目の「尤も」は、古文によく出てくる言葉ですが、現代の「もっとも」とは少し意味というか風合いが異なっていて、その時々で微妙なニュアンスがあり、「ただし」に近かったり「なお」に近かったりするようです。 (4) 記名者22人が当時の小見村の本百姓衆でしょう。寛政12(1800)年の「村定」(文書№522)の記名者24(庄屋平太郎を含む)と比較してみると、寛政文書にあって文政文書にない記名者が6名(伊兵衛、久内、利忠太、与兵衛、庄藏、平太郎)、逆に寛政になくて文政に出てくる記名者が4名(幸左衛門、善太郎、伴兵衛、昌平)。この4名は、平太郎→昌平のように、代替わりによる変化でしょう。 名前がそのまま屋号になっている家も多いと思いますが、現代までつながる家も少なくないのではないでしょうか。 |
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| 釈文 | |||||
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| 読下し | |||||
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| 意訳 | |||||
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