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| 天保12年(1841年) 詫び證文 平田家文書№516 | ||||
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| <解説> 乙(きのと)村(現・胎内市)の関係者から小見村平太郎宛の詫び証文。 平太郎は小見村の庄屋だが、この文書は私的関係ということなのだろう、肩書はない。 分かりやすい文章で、何があったのかは読めばすぐわかる。 天保12(1841)年6月23日は新暦でいえば8月9日だから、夏祭りの夜。地元の若者たち、花火大会で酒でも飲んで浮かれていたのか。 そこへ通りかかった平太郎の忰柳吉はとんだ災難に遭ってしまった。今で言えば警察沙汰になる事態。若者の親たちは大うろたえだったろう。庄屋以下の村役人も代官所から管理責任を問われかねない。何卒内分にと、必死のお願いがなされて、その結果としてのこの文書。 押印の6名中、3名は加害者、もう3名は村役人。村方三役といって、村行政のトップが「庄屋」、その補佐役が「組頭」、村の構成員である百姓(自作農=納税者)の代表が「百姓代」。江戸時代の文書にはよく出てくる。村長、助役(副村長)、議長(議会はないが)みたいな感じか。 平田家系図によれば、柳吉は、その後父の跡を継いで第14代平太郎を襲名。明治30年(1897年)まで存命しているので、この時のケガはその後にそれほど影響はなかったものと思われる。 同系図には、柳吉の祖父12代平太郎の後妻が乙村常田氏の娘、とある。つまり、柳吉の祖母に当たる方が乙村の出。その縁もあって乙宝寺の夏祭りの夜の参詣となったのだろう。平太郎が事を収めたのも、あるいはその縁があってのことかもしれない。 余談ながら、筆者(渡辺)の祖父は乙の隣村荒屋の出で、幼児、祖父の生家に泊まって乙宝寺の夏祭りに行った幽かな記憶がある。花火の記憶はないが夜店が沢山並んだ賑やかさは、祭りで買ってもらって舐めた笹飴の味と共に、70年以上たった今も浮かんでくる。 |
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| 原文 1/3 ↓ (横長の原文1通をここに掲載する都合上3分割してあります) | ||||
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| 釈文 1/3 ↓ (上の原文をそっくりそのまま活字にしたものです) | ||||
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| 読み下し文 1/3 ↓ (釈文を読み易いように現代文に近い形にしたもの) | ||||
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| 原文 2/3 ↓ | ||||
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| 釈文 2/3 ↓ | ||||
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| 読み下し文 2/3 ↓ | ||||
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| 原文 3/3 ↓ | ||||
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| 組頭の下の印印は、用紙を糊で貼りつないだ箇所の裏印が写ったもののようです。裏印は他の箇所にも写っています。なお、1枚目の「幸作」の箇所の印は、訂正の紙を張付けた訂正印です。 | ||||
| 釈文 3/3 ↓ | ||||
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| 読み下し文は釈文と変わらないので、省略しました。 | ||||
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